表紙

  聖エラスムスの火 12


 別に何事もなく、冬は過ぎ、遅い春がやってきた。 マオは学年3位という優秀な成績で3年に進級した。
  そろそろ本格的に進路を決めなければならない時期だ。 立派な成績のマオに、先生は大学進学を勧めた。
「ここだと平均偏差値42.5以上で特待生になれる。 他に奨学金も取れるし、僕の友達で塾の講師している奴が助手をほしがってるから推薦してあげるよ。 全部あわせればF市の物価ならなんとか生活していけるんじゃないか」
  いい先生だった。 親身になってマオの将来を考えてくれた。
  それでもマオはきっぱりと告げた。
「進学はしません。 働きながら手に職をつけるつもりです」
「どんな?」
  危なっかしそうに、長谷川先生は尋ねた。
  まだ具体的に考えていなかったマオは、とっさに思いついたことを口にした。
「ヘアサロンに勤めて、ヘア・スタイリストに」
「横文字だとかっこいいけど、それって美容師だよ。 立ったままで客の髪洗ったりカーラーかけたり、きつい仕事で、手首をいためるひとが多いんだよ」
  どうしてこんなに詳しいんだ? マオは首をかしげたが、すぐに理由がわかった。 先生自身の口から出た。
「うちの奥さん美容師でさ。 年末なんか腕がパンパンに腫れて、赤ちゃんも抱けなかった。 見てて辛くてさ」
  やさしい長谷川先生だから、せっせと家事育児に奮闘したのだろう。 偉いと思ったが、実情を聞かされても心は揺るがなかった。 どんな仕事も楽ではないはずだ。 反対されたことで、マオは逆に、本気でやろうと思い始めていた。

『美容師って、井上さんどう思いますか? ずっとやっていける仕事に就きたいんです。 細かい作業は好きだし、自分では向いてると思うんですが』
 
『いいんじゃないのか。 マオがやりたいなら。 昔から髪結いは女性の仕事だったし、好きなことをするのが一番だと思う。
               井』


  マオは、それまで全然興味を持たなかったファッション雑誌を読みふけるようになった。 スタイル画を描く練習も始めた。 グラビアに載ったモデルたちの姿を写していると、今のトレンドや、服装に合った髪型のコツが少しずつ身についてくる。 もともと絵が好きなマオは夢中になった。
  ひっつき虫の雅代が、パリ・コレの細長いモデルをデッサンしているマオの肩に、後ろから肘をついてのしかかってきた。
「重い!」
「フムフム、すっげえ化粧濃いね。 眼の回り真っ茶色」
「ステージ・メイクだからね」
「このオバたち、いくつぐらいだろ」
「オバじゃないよ。 ええと、16だって」
  雅代はのけぞって、畳の上に尻餅をついてしまった。
「マオより若い!」
  そう言えばそうだ。 マオは可笑しくなった。
「なんかさ、外人って老けてるよね」
  雅代はついでに畳に引っくり返って、足を高く上げて運動を始めた。
「ね、知ってる? こうやると美脚になるんだって」
「充分美脚だよ」
  と、マオは保証した。 確かにすらりとしたきれいな脚を自慢そうに空中で交差させて、雅代は気取った声を出した。
「私ってば美貌! ねえ、原宿歩いたらスカウトされるかな」
「あれって大抵は作り話なんだってよ。 週刊誌に書いてあった」
「でもスカウトされる人も中にはいるんでしょ?」
  雅代はなかなか諦めきれないようだった。
「スカウトと見せかけてフーゾクに売る奴もいるって」
「ギャー」
「売り出してやるからって金取られたりね」
「それは大丈夫だ」
  雅代は不意に起き上がって言った。
「金ねーもん」
  それからまたぐだっとなってマオに寄りかかった。
「でもね、雅代さんはもう急がないのね。 だってだって、結城サマが、あの誠也が急にタレントやめちゃったんだもの」
「ふうん」
「売り出したばっかなんだよ。 『光の眼差し』でブレイクして、1年も経ってないのに〜」
  うるさくてしょうがないので、マオは適当に相槌を打ってやった。
「かわいそうにね。 それで彼、どこに行っちゃったの?」
「それがさ」
  雅代は憤然とした。
「芸能プロの重役になっちゃったの。 なんだろ、ほんとに」
「プロデューサーって儲かるらしいよね。 やっぱ使われるより使うほうがさ、立場強いから」
「グヤジー! もったいない〜〜」
  ひとしきりわめいた後、急に静かになったので、マオが振り返ると、雅代は小さないびきをかいていた。
 
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