表紙
 

 聖エラスムスの火……
  古代より、荒れ狂う海に
 ただよう舟のマストに現れ
 嵐の終りを告げた

  セント・エルモの火、狐火とも言う


 

  聖エラスムスの火 1


 マオの本当の名は『まどか』だ。 小さいとき、うまく発音できなくて、自分をまお、まおと言っているうちに、誰もがマオとしか呼ばなくなった。
  木暮〔こぐれ〕まどか――わりときれいな名前だと思うが、マオが持っているのは、その名前だけだった。
  3歳の時に、岬山〔みさきやま〕愛育園に預けられた。 丹波〔たんば〕先生とふたりきりで残されても、泣かなかったのを覚えている。 母が戻ってくると信じていたからだ。 だが翌日も、翌々日も、母は来なかった。
  しばらく待っているうちに、マオは泣くチャンスを失ってしまった。

  先生たちは親切だった。 友達もできた。 特に仲が良かったのは、1つ年上の中野真帆。 彼女はマホ、まどかがマオでややこしいので、真帆はマーコと呼ばれるようになった。
  小規模な施設だったから、まるごと家族のようなもので、中にいると安心だった。 大きな兄ちゃんも、妹や弟もいる。 一緒に小学校へ通って、このまま中学へ進んでいくんだろうなと、当たり前のように思っていた。

  不意に一本道が途切れたのは、6年生の冬だった。 外人が来た、とチビたちが騒いでいるので、夕食当番だったマオも、三角巾のまま厨房の窓から首を突き出して庭を見た。
  すると、門の脇にあるトウヒの樹の横に、大きな男性が立っていて、松木園長と話しながら周囲を見回していた。
  ぴたっと吸い寄せられるように目が合った。 年のころは35、6歳だろうか。 淡い茶色の髪がそよ風になびき、頬にそばかすが散っていた。 感じのいい顔だ、とマオは思った。
  庭にいた小一の男の子が、厨房の窓辺に走りよってきて、小声で叫んだ。
「あの人さ、目が、マオと同じだよ!」
 
  リック・エリオットというその男性は、マオを養女にしたいと申し出てきたのだった。 町で見かけて、難病で失った娘の生まれ変わりと信じこんでしまったらしい。 確かに日本の、それも東北の静かな田舎町で、青い眼の女の子を発見するのは珍しいかもしれないが、ずいぶん思い込みの激しい話だった。

  4日後、エリオットは今度は妻を伴ってやって来た。 エリオット夫人は日本人で、亜衣〔あい〕と名乗り、マオに笑顔を向けたが、目はどことなく悲しそうだった。
「マオ? 呼びやすい名前ね。 うちの娘はカレンといったのよ」
  その発音はキャレンと聞こえて、耳慣れなかった。 私もキャレンにされるのかな、と思うと、あまりうれしくない気がした。

  エリオットが家族を連れてマオを迎えに来たのは、それから1ヶ月ほど経って、養子縁組が正式に成立したときだった。 夫妻にはもう一人子供がいたらしく、背が高くて肩幅の広い男の子が、母親の横でマオを注意深く観察していた。
  亜衣夫人が、男の子の手を握って前に差し出して言った。
「ジェスよ。 あなたのお兄さん。 仲よくしてね」
  ジェス少年の眼は青くなかった。 強いて言えば灰色に近い、複雑な色で、得体の知れない煙のようだった。
「こんにちは」
  マオはむっつりと言い、伸ばされた少年の手に軽く触れた。 じっとりと汗で湿っていて、嫌な感触だった。

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