表紙

面影 94


 だが、振り切ったつもりでも、心の霧は次第に濃さを増し、お参りをすませてのんびり帰る途上もゆき子を暗く覆った。
――あれは誰? 思い出せないのにひどく身近に思われるあの面立ちは…… ――
 家族だろうか。 いや、それなら当てこすりなど言う前にすぐ呼びかけてくるはずだ。
――美しい男子〔おのこ〕だった。 たぶん二十歳そこそこぐらいの。 また会うだろうか。 もしや後をつけてきてはいまいか――
 気になって何度か振り返ったが、あの目立つ若者のいる気配はなかった。

 一行は破魔矢を手に家へ帰りついた。 午後から進藤は年始の挨拶回りに行くとのことで、あわただしく茶漬けをかきこむと、賀川を連れてふたたび出かけていった。
 それっとばかり、お初が双六を持ち出してきて、座敷に広げた。 はしゃぐお明に留守居役となった柳瀬も交えて、にぎやかにさいころがあっちへ転がり、こっちでぶつかった。
 ゆき子も一応遊びに加わっていた。 しかし、お江戸日本橋から天下の台所である大阪に至る東海道の宿場町をよく知らず、だんだん興味を失って、別のことを考えるようになった。
――あの男の人は私を見知っている。 なのに、私はとっさに知らんふりをしてしまった。 やはり、顔をそむけずに呼び止めるべきだった――
 自分の弱さが今更に歯がゆかった。
 だがあのとき、前を行く進藤も同じ態度を見せていたのだ。
 彼にはあの皮肉が確かに聞こえていたと思う。 片方の肩がいくらかそびやかされたのを、ゆき子ははっきりと見てとった。
 しかし、彼は聞こえないふりを装った。 横を見る素振りさえ見せなかった。 あのとき、進藤とゆき子は、微妙な息の合わせ方をしていたのだ。 どちらも、おそらく無意識に。


 日が落ちてだいぶ経ってから、進藤は梅野邸を出た。 亀岡らはまだ残っていて、にぎやかな歌声が食堂の方角から道に響いていた。
 賀川は台所で酒をふるまってもらったらしく、赤い顔でご機嫌だった。
「まだ皆さん方騒ぎよりますきに、もうお帰りになってよ、よ、よいのでありますか?」
 お国訛りが微妙に兵隊用語と混じって、珍妙な言葉になっている。 おまけにろれつも怪しかった。
 進藤は眉を寄せて、行く手の暗闇をすかし見た。 目に疲れた表情が浮かんだ。
「ほたえる(←馬鹿騒ぎする)のは好かん。 気の休まる場所へ行くか」
「ど、どこでありますか?」
「行きゃわかる。 まあ、こん忙しい時期におるかわからんが」
「お供します」
「ふらついちゅうぞ」
「平気であります!」
 木枯らしが、まだ街灯のない街を舞った。 たよりなく揺れている賀川の手からカンテラを受け取ると、進藤はひとつ息をついて、ひと気の少ない夜道を歩き出した。



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