表紙

面影 92


 翌日の夜、梅野は宴席を設け、山田を呼んだ。
 進藤は山田に嫌われているので小料理屋に行くことはできなかったが、代わりについていった亀岡から一部始終を聞いた。
 それによると、初め山田の殿はどっかと主席に座り、仏頂面で文句ばかり言っていた。 だが、やがて襖が開いて、着物の裾を長く引いた初音が姿を見せると、ごくっと唾を飲み、一言も発しなくなった。
「それからひたすら目で追って、初音が横へ座ると十二、三の若造のように顔を赤らめてな。 すっかり魂を抜かれたようだった」
 亀岡はけらけらと思い出し笑いをした。
「安心しろ、進藤。 おぬしの細君は安泰だ」

 帰宅した進藤から話を訊いて、ゆき子も胸をなでおろした。 これ以上進藤に迷惑をかけたくなくて、もし山田の殿様が無理難題を言うようならすぐ江戸を去るつもりでいた。 旅銀はちゃんとある。 金は壷に入れて床下に隠してあった。
 だが、いつしかゆき子はこの家を離れがたくなっていた。 親切なのは進藤ばかりではない。 女中のお次やお明、それに従卒の柳瀬に賀川、みな善良でさっぱりした人々だった。 まだ記憶が戻らず、心細さを抱えているゆき子には、この繭のような家庭に守られて過ごす毎日が、本当に貴重なものだったのだ。

 その夜はほっとして、大晦日の朝は寝過ごしてしまった。 しかし、もう片づけはすんでいるし、新年の挨拶用に年始帳を玄関に置き、屏風を出してくるぐらいしか準備は残っていなかった。
 のんびりと日の当たる縁側でくつろいでいると、近くの子供たちの話し声が聞こえてきた。 正月にあげる凧を何人かで作っているらしい。 試しに道で飛ばしてみては、ひごの位置を調節したり、尻尾の長さをあれこれ変えたりしているようだった。
 にぎやかな高い声を聞いているうちに、ゆき子は峠にいた久作を思い浮かべた。 別れを惜しんで山の上から手を振った小さな姿が、痛いような懐かしさと共によみがえってきた。
――ここはとても居心地がいい。 でもやはり、いつまでも甘えていては申し訳ない――
 今はまだ辛いけれど、いつかは決断をして、故里へ戻らなければいけないと、ゆき子は強く自分をいましめた。 町は戦で荒れ果てているだろう。 しかし、誰か一人ぐらいはゆき子を見知っているはずだ。 自分がどこの誰か、それさえわかれば、これからどうやって生きていけばいいかめどが立つかもしれない。
 だがそれは同時に、自分が過去に誰を失ったのか、はっきり思い知らされるときでもあった。



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