表紙

面影 87


 その日、ゆき子は武三という兄とお昌〔まさ〕という姉がいたことを思い出した。 それに、どうやら田舎の広い屋敷で育ったことも。
 夜、わくわくした顔のお明から報告を受けて、進藤は軽くうなずいただけだった。
「育ちはよかろ。 すんぐわかる。 問題はそこからじゃき」
「そうですねえ」
 つられてお明も渋い表情になった。
「まあ気長に待つことだ。 焦らせんようにな」
 そう釘をさすと、進藤は何も聞かなかったように、文机に向かって手紙を書き始めた。


 二十九日、進藤は普段通り、辰の刻(=午前八時)あたりに梅野邸に着いた。
 すると、もう一人の秘書である亀岡が玄関脇の控え室から出てきて、進藤の袖を取り、廊下の奥に引き入れた。
「こっちだ、こっち! そっちへ行かんほうがいい」
「なぜ?」
 進藤がいぶかしげに眉を上げると、亀岡は応接間のほうに顎をしゃくって、声を低くした。
「山田の殿様がもうやってきて居座っとるんじゃ。 縁日で進藤さんの細君を見初めて以来、お主〔ぬし〕を目の仇にしとるから、顔を合わせんほうがよいと、閣下がな」
「ああ、それで入っちゃいけんと」
 進藤は平気で笑っていた。
「笑い事ではないぞ。 あの殿様は若いが蛇のようにしつこいと評判だ。 細君を横取るために、進藤さんを闇打ちにしかねん」
「まさか」
「いや、ほんとだ」
 ここで亀岡は、あきれた表情になった。
「顔を合わす度に梅野閣下にねだるそうなんだ。 あの二人を別れさせる手段はないか、進藤とやらだけを国許に帰してはどうか、などと。
 これには閣下も心配されてな、妙案を思いつかれたのだ。 これからさっそく実行するのだが、それについてはぜひともお主の目が必要でな」
「目とは、いったい何の話かの?」
「道中で詳しく話す。 よいから一緒に来てくれ」
「どこへ?」
 亀岡の声が弾んだ。
「色街へだ!」
 



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