表紙

面影 75


「あっちには医者もこじゃんとおるだろう。 ついてこんか?」
 女はびくっとして頭を上げた。 その目に、庭へ視線をそらしてぼんやりと見つめる、どこか寂しげな男の横顔が映った。
「あちこちで戦ってきたが、今度の戦闘には参った。 敵兵だけじゃのうて、女子まで平気で殺すもんじゃきに、気分が悪うなった。
 それでな、せめてお前さん一人ば元気にできんもんかと思ってな」
 声が渋いうえに聞き慣れない言葉が混じって、半分はわからなかったが、それでも進藤のやりきれなさは伝わった。
 今のところ、日常生活は支障なくできるようになった。 しかし、肝心の自分を取り戻せず、暗がりでもがいている心に、ふとかすかな灯りがともった。
 膝をそろえて座りなおすと、女は低く答えた。
「いつまでもここにご厄介にはなれません。 せめて人の足手まといにならないように、入用なことは思い出したいです。 お供させてください」
 進藤はうなずき、すぐ立ち上がった。 決断の早い性格らしかった。
「隊はざんじ行くきまっちょって、一緒に連れて行けんから、後で迎えをよこす。 ほんじゃきに、しばらく待っちょれ」
 

 間もなく、峠では雪が降り出した。 一ヶ月余りが過ぎても、進藤からは何の連絡もない。 そして、女は相変わらず記憶を失ったままだった。
 軒には小さなつららが下がり、去年の末にかけた干し柿の連なりと並んで、朝日にきらめいた。
 久作が、雪囲いの下にある野菜を取りに行くというので、女も手伝いについていった。 踏みしめる雪は青いほど白く、夜の冷気に表面が凍りついてキュッキュッという鋭角的な音を立てた。
 少し前を歩いていた久作が、思いついたように言った。
「ねえちゃん、この雪に似てるな。 白くてきれいで」
 ゆき…… その響きに、女はどきっとして立ち止まった。 しばらく進んで、女がついてこないのに気付いた久作が、振り向いて叫んだ。
「どうした! 雪んこねえちゃん!」
 女の手が、苦しいように襟元を掴んだ。
「あの……あのね、私、ゆきと呼ばれていたような気がする」
 たちまち少年は、新雪を蹴立てて駆け戻ってきた。
「そうか! 思い出したんだね!」
「いや、はっきりしない。 気のせいかもしれないけど」
「そうだよ、きっとそうだ。 雪ん子で、ゆき子だ!」
 自分が役に立ったことで、久作はすっかりうれしがり、女の名をゆき子と勝手に決めてしまった。



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