表紙

面影 72


 とたんに頭がずきんずきんと脈打ち、冷や汗が出てきた。 のぼせた顔になったのだろう。 年寄りは慌てて額に手を載せた。
「落ち着け。 落ち着くんじゃ」
「思い出せない……」
 女は身もだえした。 息が苦しくなってきた。
「行かなきゃいけないのに! 寝こんでいるわけには……」
「大丈夫じゃて」
 年寄りは低くなだめた。
「死人は逃げてはいかれん」
 その言葉で、突然首をへし折られたような衝撃が走り、周囲が真っ暗になった。


 次に目覚めたときは、暗くなっていた。 今度こそ記憶が戻っていると思ったが、やはり何も変わらず、頭の中は空白だった。
 言葉はちゃんと出てくる。 ここが農家らしいことはわかるし、先ほどの年寄りの顔、天井の粗い木組みの様子など、くっきりと覚えてもいる。 ただ、自分に関する事柄だけが、きれいさっぱりと頭から抜けていた。
 ――落ち着け。 落ち着くんだ――
 また心臓が不規則に打ち出したので、女は懸命に自分に言い聞かせた。
――のぼせては駄目だ。 ここまで頑張って生き抜いてきたんじゃないか。 しっかりおし!――
 生き抜いた、ということばが、どこからともなく浮かび上がってきた。 何か苦労があったのは確かだ。
――逃げてきたんだろうか。 あのばあさまは撃たれたと言っていたが――
 掴まってはまずい。 だからこんなに気持ちが焦るのか。
 目を閉じて深呼吸した直後、廊下で人の気配がした。 カチャカチャという金属音を伴っている。
――腰の刀が擦れる音だ!――
 瞬時に悟って、女は震える手で懐を探った。



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