表紙

面影 70


 どこをどう通ったか、まるで覚えていない。 敵の巡回兵に見つからなかったのが奇跡だった。

 いくらか自分を取り戻して、お幸は細い道をたどっているのに気付いた。
 そこは両側から山が迫り、小さな谷底のように思える場所だった。 川のほとりで嗅いだ、息が苦しくなるほどの死臭が、ここにも充満していた。 この臭いに導かれて来たのだと、ようやくお幸には理解できた。
 背後には満々と水をたたえた猪苗代湖があり、横から甘橋川が流れこんでいた。 よろめくように行き過ぎる脇の幹には、次第に焼け焦げが増え、大枝が無残に垂れ下がっている樹木も多くあった。
 臭いは既に形あるもののようにお幸を打ちのめしていた。 それでも歯を食いしばって、お幸は前へ進んだ。
――あの人を見つけるんだ。 どうやっても見つけて、連れて帰る。 そのために罰を受けてもいい。 あの人をきちんとご先祖の墓に収めて、それから私は……私は…… ――
 急に目の前が開けた。 黄色くなった雑草の中に、討ち死にした兵士たちが埋もれていた。 もう一ヶ月近く打ち捨てられた遺骸は、服が裂け、半ば土に還った有様で、鳥獣に食われ、あちこちに散乱していた。
 お幸はぐるぐると、荒涼たる平野をさまよった。 見覚えのある着物の柄を見つけようと目を凝らしているうちに、鈍い頭痛に襲われ、笠を地面に打ち当てるように投げ捨てた。 髪がほどけて顔にかかったが、気付かなかった。
 やがて視野がちらついてきた。 遺体はみな同じように見える。 虫に食い荒らされた抜け殻だ。 このどこが、凛々しい伊織様だというのだ。
「やっぱり嘘だ」
 吐き気をこらえて、お幸は呟いた。
「こんなのは、あの人じゃない。 探したって、いるわけがない」
「誰だ!」
 突然、さっき通ってきた道の方から声が響いてきた。 お幸は急がず、ぼんやりと顔を上げた。
 黒っぽい服を着た男が、ずんずんとこちらへ近づいてくる。 後ろに四人ほど小銃を持った兵を従えていた。
――だんぶくろだ――
 敵なのに、怖くなかった。 こちらへ向かってくる男は、若く溌剌として、美しかった。 夕陽を受けて明るく照らされた、どこか見覚えのあるその顔は、婚礼の日に迎えてくれた伊織の輝くような顔に似ていた……
 男は五歩ほど離れたところで止まり、はきはきした声音で言った。
「ここには立ち入るべからず。 すぐ出なさい」
 お幸は、魅入られたように男の目を見つめた。 見つめ続けたまま懐に手を入れ、拳銃を取り出して、眉間に狙いをつけた。
「おおっ!」
 男ではなく、背後の兵たちがどよめき立った。
 男は手で部下を制し、平静な口調で話しかけてきた。
「やめろ。 そんな物はのけろ。 もう戦は終わっちゅう」
 お幸は瞬きもせずに撃鉄を上げた。 とたんに兵士の一人が素早く銃を構え、発射した。
「撃つな!」
 お幸の耳に聞こえた最後の音は、銃声に混じった男の叫び声だった。


【第一部終】




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