表紙

面影 60


 篠つく雨の中、早鐘がけたたましく打ち鳴らされ、耳をつんざいた。 間もなく、静まっていた町が潮騒のようにどよめき、家々から住人たちが一斉に飛び出した。
 予想より遥かに早い敵の侵入だった。 町の東方では既に砲声が轟き、会津兵たちが陣形を立て直す間もなく、どっと押し込まれてきた。
 人々は不意打ちをくらって平常心を失った。 大八車に荷物を手当たり次第に積み上げ、点々と落としながら走る者。 うっかり子供を遊びに行かせてしまい、声を嗄らして探し回る者。 それぞれが逃げるのを焦るあまり、ぶつかったり反対に動いたりして、人の流れが危険な渦を巻いた。

 混乱した人々に突き当たって、お幸とおせきは思いとは反対の方角に運ばれていた。 東から迫る敵に追われて、避難する町人はやがて一気に合流し、怒涛のように西へ西へと進んでいった。
 お幸はおせきをそばに寄せておくのが精一杯だった。
「しっかり掴まって! 手を離したら二度と会えないよ!」
「お嬢さんも転ばないでくださいね! 踏み潰されてしまいますよ!」
 大げさではなかった。 実際にこの朝、いくつかの木戸口に殺到した町民たちが狭い通路で押し合い、百人近くの圧死者が出たのだった。

 金包み以外は大した荷物のなかった二人は、揉まれながらもなんとか川原町口までたどり着き、城下町から出ることができた。 押されてよろめきながらも、広い郊外に出てほっとした二人が振り返ると、町のあちこちから火の手が上がり、黒煙が渦巻いているのが見えた。
 しかし、試練はまだ続いた。 会津若松の西には、大川(=阿賀川)という大河が流れている。 この川は大きすぎて橋がかけられず、渡し舟で越えるしかなかったが、折悪しくも降り続いた雨のせいで水が増え、激流と化していた。
 それでも背後の恐怖のほうが大きかった。 人々は先を争って小舟に乗り、われがちに漕ぎ出していった。 お幸たちはどんどん横へ押しやられ、どうしたらいいかわからずにいた。
 その目の前で、濁流は小舟をまるでおもちゃのようにもて遊び、傾け、転覆させた。 悲鳴をあげながら流される男女の横を、別の舟がすり抜けていく。 助けあげるどころか、自分たちが釣り合いを保つのに精一杯だった。
 騒ぎが聞こえたのだろう。 近くの農民が川岸に駆けつけてきた。 そして、鍬や竹竿を伸ばして溺れかけた人々をすくい取り、かいがいしく岸に引き上げた。
 なす術もなくその有様を見ていたところ、強く袖を掴まれて、お幸はぎょっとして顔を振り向けた。 するとそこには見知らぬ大男が、下帯ひとつで立ちはだかっていた。




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