表紙

面影 51


 三が日が明け切らないうちに、京都で戦が起こった。 後に地名を取って、鳥羽・伏見の戦いと呼ばれるようになったもので、会津兵は桑名藩や新撰組と共に伏見の街中で薩長連合軍と相対した。
 四年前の禁門の変のとき、長州藩は15ドエム銃という新兵器によって大敗北となった。 その教訓を生かし、今回は奇兵隊を発展させた近代部隊に最新兵器を持たせて攻撃してきたため、幕府軍はすぐに総崩れとなった。
 天皇の名で辞官納地の命を下され、朝敵となってしまった慶喜元将軍が、司令官としての意欲を失ってしまったのも大きかっただろう。 会津藩主の容保は戦いを続けようと提案したが、慶喜は自ら実戦を指揮することなく、敗色が濃くなるとすぐ大阪城を出て、開鳴丸という軍艦で江戸に退却してしまった。
 やむを得ず、松平容保も慶喜と行動を共にした。 


 この戦いで、会津兵の犠牲は大きかった。 会津の大砲隊長だった林権助も戦死を遂げた。 数日遅れで伝わってくる戦況を聞くたびに、会津若松の町は暗く沈んだ。
 次は江戸の町に戦火が及ぶ、と人々は噂しあい、不安に暮れながらその日を待った。 だがその前に、容保が江戸の上屋敷を出て会津に戻ってきた。 まだ雪深い如月(二月)のことだった。
 東北には怒りと不満がくすぶっていた。 磐石と思われた徳川幕府がもろくも崩れ、遠い南の端から上ってきた者たちが、まだ幼い天皇を掲げて権力を振るいはじめている。 その裏には夷荻〔いてき=外国人〕の影が見え隠れしていて、ますます人々の警戒心を煽った。

 お幸は伊織と話し合って、土蔵の裏手にある柿の木の下に穴を掘ってもらい、小判を隠した。 それは使用人たちにも内緒で、用事を言いつけたり里帰りさせてやったりしてすべて家から出した後でひっそりと行なった。
 四角く掘った穴を前にして、伊織は引き締まった顔でお幸に訊いた。
「ここの敷地でいいのか? 何なら桔梗屋に頼んで安心なところに保管してもらったらどうだ?」
「いえ」
 お幸は激しく首を振った。
「万一戦になってこの屋敷が襲われても、蔵は残ります。 必ず戻ってきてまた掘り出せます!」
「だからこの家のことはいいんだよ」
 伊織の口調に、苦いものが上乗せされた。
「徳川三百年の御世は終わった。 われわれ武士がこれからどうなるのか、もう誰にもわからないんだ」




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