表紙

面影 48


 関東と京都からは、相変わらず不穏な噂が聞こえてきた。 会津の殿様、松平容保〔まつだいら かたもり〕は守護職として京都に詰めていて、配下の部隊は交代で国許に戻って来る。 その侍たちの口から、混沌とした都の様子が伝えられ、のんびりしていた土地の者も、次第に獏とした不安に取り巻かれ始めていた。

 十月初めになって、部屋住みだった誠吾にお召しがかかった。 誠吾は勇んですぐ準備にかかったが、母の史絵はさすがに心配そうだった。
「京の町は辻斬りや暗殺が毎日のように起こっているというではありませんか。 くれぐれも気をつけるのですよ。 特に、うまいことを言って近寄ってくる男と、甘い言葉で誘ってくる女子には」
 いつも呑気な母親からそう声をかけられて、誠吾は驚いた。
「意外ですね。 母上なら、隣りの村に行くぐらいの気楽さで、行っていらっしゃいと声をかけてくださるかと思ったが」
「そんなことはありませんよ」
 史絵の顔に愁いがかかった。
「十月十日かけて大切に生んだ我が子です。 それからも手塩にかけて育ててきました。 無事を祈るのは当たり前。 元気で生きてこそ殿のお役に立てるのです。
 無茶をせず、功を焦らず、ここぞというときまで力を貯めておおきなさい。 蛮勇必ずしも勇ならずですよ」
「はい、母上」
 旅支度を整え、金剛草鞋の紐をきりりと結んで、二十歳になったばかりの誠吾は勇んで出立していった。
 まだ誰も、その月の内に三百年続いた徳川幕府が終焉を迎えるとは夢にも思わずにいた。


 神無月(十月)下旬、誠吾が京都へ至る旅の途上、日本中を信じられない知らせが走った。
「将軍様が政〔まつりごと〕を返上された?」
「これからは帝〔みかど〕が直々に国を治められるそうだ!」
「それでは我々は、武士はどうなる! 幕府にご奉公していた者たちは、これからどうすればよいのだ!」
 国中の藩が殺気立ち、各地で評定〔=会議〕が重ねられて、全国が騒然となった。


 伊織は、平静に城へ通い続けていた。 あわてふためいても仕方がない。 先行きのわからない世は、何か起きてから対処するしかないと割り切って、日々の勤めをしっかりと果たしている夫を、お幸は頼もしいと思った。




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