表紙

面影 46


 とたんにお幸の胸が弾けた。 見慣れぬ部屋、見知らぬ家族、何もかも心細い中で、伊織の言葉は春の陽射しのようにお幸の緊張を溶かしてくれた。
「旦那様」
 小声で恥ずかしそうに囁くと、お幸は伊織の腕に崩れた。 柔らかい背をしっかりと抱き止めて、伊織は新妻に頬ずりした。
 元結の紐が切れ、黒髪がうねって箱枕に垂れた。 口と口を合わせることを知らなかったお幸は、初め戸惑い、やがてうっとりとなった。
「かわいい。 眼も、耳も、この眉毛も」
 軽く耳たぶを噛まれた。 お幸はくすくす笑いながら、もう遠慮なく二の腕まで露わにして、夫の首に巻きつけ、そっと引き寄せた。


 翌朝、障子が徐々に明るくなるのと共に、お幸は寝具の中で目を開けた。
 隣りの布団では、伊織が熟睡していた。 きちんと肩まで掛け布団に収めて、静かな寝息を立てている。 仰向いた顔は穏やかで、かすかに唇が開き、並びのいい真珠色の歯が覗いていた。
 片肘を立てて、お幸は夫を飽かずに見つめた。 眠っているときでさえ端整な横顔は、本当に長い間、ひたすら憧れ続けてきた愛しいものだった。
――私の旦那様。 大事な大事な人――
 望みが叶ったのが信じられなかった。 手を伸ばして触れてみたい。 でも、起こしてしまうのが怖かった。

 肘が痛くなってきたので、お幸はできるだけ音をさせないように起きて、隣りの座敷へ行った。 そこにはおせきがたとう紙から着物を取り出して待っていた。
 朝の身支度を済ませ、ざっと髪を結ってもらう間に、お幸はおせきからこの家の使用人についていろいろ聞くことができた。
「下女はお熊、下男は長八〔ちょうはち〕、女中はお梶〔かじ〕さんとお紺さん。 旦那様の馬回り役は斎藤茂七〔さいとう もひち〕さん。 他にもいるらしいですが、まだ会っていません」
「お熊にお梶にお紺、それに長八と斎藤さん」
 指を折って、お幸は慎重に覚えこんだ。




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