表紙

面影 44


 客が一人もいなくなると、おせきが密やかにお幸の傍へ来て、立ち上がるのを手伝った。
「さあ、ご挨拶ですよ」
 小声で囁かれて、お幸は姑の前に行き、手をついて口上を述べ始めた。
「幸でございます。 ふつつか者ですが、どうぞ末永くよろしゅう……」
 史絵〔ふみえ〕がぱっと首を上げて、まともにお幸の眼に焦点を当てた。 面食らったお幸は、言葉を途切らせてしまった。
 史絵の顔立ちは、二番目の息子、つまり伊織にそっくりだった。 切れ長の目、引き締まった顎、くっきりした富士額まで本当によく似ていた。
 ということは、女にしては鋭い顔立ちというわけで、整っているが近づき難く、険高ささえ感じられた。
 カタンという音がして、芯張り棒の入ったようだった史絵のまっすぐな姿勢が崩れ、軽く横倒しになった。 お幸はぎょっとして後ろにすさってしまった。
 蹴出しの下から現れた右の足袋を、史絵は手で揉みながら言った。
「やれやれ。 まるで血が通っていない。 こんなので立てるかしら」
 それから、無造作にお幸に向かって手を伸ばした。
「支えてくださる? 試してみるわ」

 反射的に取った姑の手は、温かかった。 ぐらりと揺れて立ち上がった史絵は、一歩踏み出して顔をしかめた。
「うっ」
 そして、盛んに額に唾をつけて、しびれ止めのおまじないを始めた。
 急いで一緒に立ったお幸の口元が痙攣した。 不意に緊張が緩んで、可笑しくてたまらない。 だが噴き出すわけにいかないので、必死で真面目な顔を取りつくろった。
 玄関から戻ってきた若侍がその様子を目に留め、身軽にやってきてお幸から史絵を受け取った。
「母上、またしびれを切らしたんですか? 親指を重ね合わせて座ると効くと、お話したでしょう?」
「よいお式だったからつい見とれて、そんなことすっかり忘れていたわ」
 三男の誠吾と思われる若侍は、済まなそうにお幸を見て弁解した。
「あの、母は天真爛漫というか、いつもこんな調子で。 驚いたでしょう?」




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