表紙

面影 39


 婚礼は長月(=九月)半ばの吉日と決まった。 お栄が夏風邪をこじらせたとかで、結納には桔梗屋の主人夫妻が代理で出向き、とどこおりなく終わった。
「おかみさん、本当はぴんぴんしているという話ですよ」
 おせきがこっそりお幸に教えてくれた。
「お嬢さんから何の相談もなかったのがお気に召さないようで、新しい養子の弥五郎〔やごろう〕さんにも冷たくあたっているとか。 式にも出たくないとごねていらっしゃるそうです」
 お幸の顔がかげった。
「一度お店に戻りたいとお願いしたけれど、返事がないんだよ。 前に用意した着物や箪笥は、じかに向こうから林田さまに届けるというし。 もう来るなということらしい。
 先に桔梗屋の伯父さんに話を持っていったのが腹立たしいんだろうね。 でも、前もって相談できるわけがない。 ここに伊織さまがいらっしゃることなんか、まったく知らなかったんだから」
「おかみさんはああいうご気性ですからね」
 おせきも溜め息をついて、表情を曇らせた。


 暗くなった気持ちを明るくしてくれるのは、やはりこの人の訪れしかなかった。 今は天下晴れていいなずけとなった伊織は、城からの帰り、三日に一度は遠回りしても寮を訪れ、短いながらお幸と言葉を交わしていた。
 その日も、伊織は藁で綴った鮎を下げて、庭先から姿を現した。
「お幸さん!」
 夏の午後のけだるい空気を切って、その声は寮の奥まで届いた。 重いものが苦手なおせきを手伝って、井戸で冷やした西瓜を切っていたお幸は、ぱっと顔を輝かせ、前掛けで手を拭きながら座敷に走っていった。
「おいでなさいませ! 今、冷たい西瓜をお出ししようと思って支度していたところです。
 おせき、おせき! 手水鉢を持ってきて!」
「はーい」
 奥からのんびりした声が響いてきた。
 しっかりと目を見合わせ、微笑をたたえて、伊織はお幸の手に藁紐を渡した。
「夕餉にでもどうかと思って」
「まあ、きれいな魚! ありがとうございます!」
 お幸の頬が、温かい夕焼け色に染まった。




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