表紙

面影 38


 矢柄屋には、お幸の婿候補の一人だった親戚筋が、改めて養子に入ることになった。 治助が店を継ぐことを内心願っていたお幸は、桔梗屋義三がその話をしに来てくれたとき、代わりの案を思い切って頼んでみた。
「あのう、伯父さんがきちんとしてくださっていた実家の財は、矢柄屋が二軒買えるほどのものだと言われましたね?」
「その通り」
 義三はすぐにうなずいた。
「ひょっとすると三軒かもしれん。 相当な金額だよ」
「それなら」
 お幸は膝を進めた。
「そのうちの幾らかを、矢柄屋に働く人たち、特に大番頭、番頭、丁稚や小女の人たちにやりたいと思うんですが」

 義三は袖口に手を突っ込んで腕を組み、あっけに取られた表情で、年若い姪を眺めた。
「だが、おまえは間もなくあそこの人間ではなくなるわけだし」
「だからこそです」
 お幸の声は真剣だった。
「八つのときから、番頭さん達にはひとかたならぬお世話になりました。 年端の行かぬ物知らずの小娘を守り立て、商売に励んでくれたからこそ、今の矢柄屋があります。
 治助さんはそろそろ二十五。 嫁を取って独立するには、いい潮時ですし」
 義三の目が、ふと柔らかくなった。
「そうか。 それがいいたかったんだな。
よしよし、もう由吉が一人前の番頭に育ったようだから、治助に暖簾分けするよう、お栄に話してみよう」
「ありがとうございます! 出すぎたことを申しまして、伯父さんには申し訳ありません」
「いや」
 組んでいた腕をほどくと、義三は静かに答えた。
「縁組の話を聞いて、治助が血相を変えてうちに来たわけがよくわかった。 その若さで、よくそこまで心配りができるものだ。 矢柄屋には残念なことだったな。 おまえがお侍に見初められて、去っていくのは」 
 



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