表紙

面影 30


 五瀬通りへ向かうとき、どうしてもお幸の足は速く動き、おせきにたしなめられた。
「急ぐと人目に立ちます。 あのお方はまだ若いから、日新館(藩の学校)に通っておられるかもしれません。 たしかあそこは女子と言葉を交わしてはいけない決まりです。 目立って伊織さまを困らせたくはないでしょう?」
 あわててお幸は歩調を緩めた。

 寺の境内に入った二人は、外とはちがったひんやりした微風に包まれた。
 身の丈ほどもある柘植〔つげ〕の植え込みを回っていくと、大きな松の木陰にいた若者が、さっと身を起こした。
 とたんに、空気の色が変わって見えた。 淡い灰色から白へ、そして虹色へと。

 おせきの存在もその中へ融けこんでしまって、もうぼんやりとしか感じられなくなった。 ふたりは意識せずに手を差し出し、気付いたときには固く結び合っていた。
「お幸さん」
 この人の声で呼ばれると、どうしてこんなに胸がはじけるんだろう。 お幸は熱っぽい大きな手に手を預けたまま、ぼうっとした気分で伊織の襟のあたりを見つめていた。
 声は低く、音楽のように続いた。
「不思議な気持ちだ。 何年もすれ違っていただけなのに、不意にこうやってさし向かいになれて。 信じられない」
 私こそ、と思いながら、お幸の口はどうしても開かなかった。
「わたしの名前は、あっと、この間言いましたね。 改めて名乗ります。 林田伊織。
 家は代々主馬頭〔しゅめのかみ〕を拝領しています。 わたしは本来次男だったのですが、いろいろあって、今年の春から跡を継いでいます」
 跡継ぎ……。 町娘の添える相手じゃない。 わかっていたが、それでもお幸は、首筋に刃物を当てられたようにひやっとした。
 



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