表紙

面影 28


 いくら閑散とした寺の前でも、人が住んでいないわけではない。 向かいの窓から覗かれるのを嫌って、おせきが遠慮がちに言葉をかけた。
「それではもうそろそろ」
「では、明後日に」
 耳に残る声で言い置いて、伊織は一礼すると道を遠ざかっていった。 背筋をまっすぐに伸ばし、肩を揺らさずに歩いていく若い後ろ姿を、お幸は角を曲がるまで見つめ続けていた。


 夕焼けの道を戻る間、おせきは何も言わなかった。 しかし、水桶を持ってきて埃に汚れた足を洗っているときに、ぽつんと呟いた。
「あの方はお侍ですよ」
 お幸は黙って足を拭うと、先に部屋へ入った。 後からおせきが追いすがって続けた。
「手には木刀たこがありました。 それにあのしっかりした話しぶり。 とてもとても、町家の入り婿に来てくれるようなお人ではありません」
 畳の上に横座りして、お幸は霧のかかった目で赤く燃える空を見やった。
「違うんだよ、おせき」
「どこがどう違うんです?」
 口を尖らせて、おせきは言い返した。
「お嬢様は引っ張りだこなんですよ。 清次郎さんや、まして朝三郎なんてもったいない。 流し目ひとつで大店の次男坊が喜んで婿に来るぐらい、ご器量がよろしいんですよ。
 それを、何を好きこのんでお侍なんかとかかわりになろうとなさるんです。 あの方たちは確かに格式は上です。 でもお台所は火の車。 立派な奥方さまが、裏に回ると内職をなさってたりするんですよ」
 お幸は白い歯を見せて、ころころと笑い出した。
「奥方さま? 誰がそんなお先ッ走りなことを考えているもんか。 私はただ、伊織様に会いたいだけ。 顔を見て話が聞ければ、もう何も望まない」
「お嬢様……」
 おせきは息を呑んだ。
「もしやお嬢様は、あの方を……」
「好きだよ」
 あっさりと、むしろ軽い調子で、お幸は答えた。



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