表紙

面影 23


 しまった!

 最初にひらめいたのは、その言葉だった。 用心に用心を重ねてきたのに、ことが収まりかけた今になって若狭屋の朝三郎に見つかったのか……?
 おそるおそる斜め後ろに向けた目が、火のようなものに行き当たった。
 それは、路地の端に立つ若い男から放たれた、炎を帯びた視線だった。 まさかここで会えるはずがない、という驚きに身を硬くして、彼はひたすらお幸を見つめ続けていた。
 うろたえていたので、初めお幸はその若い衆が朝三郎でなかったことに胸を撫でおろし、すっと視線をそらした。
 次の瞬間、眉間をガンと殴られたようになった。 わっと体中で向き直ると、相手はまだこちらを見つめ続けていた。
 色白なお幸の頬に、燃えるような赤味が広がった。
――あの人だ……あの人が私を見ている……まるで……まるで弁天さまに逢ったみたいに―― 

 お幸の意識からすべてが消えた。 定まりなく揺れ動く白い道の彼方に、彼ひとりだけが全身に光をたたえ、くっきりと浮き上がって見えた。
 お幸と見交わしあったまま、若者は足を踏み出し、まっすぐこちらへ向かってきた。 お幸はほとんど息ができず、口をわずかに開いたまま、彼が近づいてくるのを見守っていた。
 すぐそばまで来たとき、彼の手から手ぬぐいが落ちた。 立ち止まって拾う仕草をしながら、低い声が囁いた。
「できるなら、五瀬〔ごのせ〕通りの天水桶のところへ来てください。 あなたのことをもっと知りたい」
 お幸がしびれたように立ち尽くしている間に、若者は身を起こし、早足で遠ざかっていった。
 そのすんなりした背中は、すぐに雑踏に飲み込まれてしまった。 だが、お幸はうつけたようにその方角に眼を置いていた。 あまりいつまでもぼうっとしているので、困った飴細工師が呼びかけた。
「ちょいと、お嬢さん! もうできあがりましたよ」
「ああ、はい」
 魂の抜けたようなお幸の様子に気付いたおせきが、替わりに代金を払って、雀を受け取った。



表紙 目次文頭前頁次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送