表紙

面影 114


 幸は歩きながら、夫に借りた双眼鏡を誠吾に見せた。
「走る馬が大きく見えるよって貸してくれたけれど、ぼやけてはっきり見えないの。 どうしたらいいかしら?」
「ちょっと貸して。 ええと、そうだ、このネジを回すんですよ」
「どれどれ」
 覗いてみて焦点が合うので、幸は手を叩いた。
「ほんと! くっきり見えます。 遠くのあの馬がすぐそばにいるよう」
「相変わらず素直に喜びますね」
 ちょっと皮肉に、誠吾は言い返した。
「牧場が軌道に乗るまで苦労だったが、幸はいつも明るくて助かったと、兄者〔あにじゃ〕から聞きましたよ」
「どんなに苦労があっても切り抜けてきたし、伊織様なら切り抜けられると信じていましたから」
 もうそれは、幸にとって信仰のようなものだった。 伊織様ならやり抜ける。 これまでずっとそうだったし、これからもきっとそうなるはずだ。
 ひっそりと東京から会津に戻り、焼け野原になった屋敷を目にして、思わず膝をついてしまったときも、伊織はすぐ冷静に戻って、黒焦げの土蔵の位置から隠し場所を割り出した。 そして、埋めておいた甕〔かめ〕を見事に掘り上げた。
 金子〔きんす〕は何の痛みもなく残っていた。 その金を馬につけ、二人はただちに北を目指した。 伊織は、出立前に幸の親戚たちに会っていったらと勧めてくれたが、幸は断わった。
「このままでは顔を合わせられません。 新天地にしっかりと根を張って土台ができたら、そのときに手紙を書きます。 さもないと、娘時代のようについ頼ってしまいそうで」
「そうだな。 しがらみは少ないほうがいいかもしれない」
 別れ際に誠吾が渡してくれた道中安全のお守りを腰につけ、伊織は妻をさりげなく気遣いながら、まだ鶴ケ城一帯を占領している官軍に見とがめられないよう農民に身をやつして、会津・福島の地を抜けたのだった。

 そして、十二年の年月が過ぎた。 ふたりは先住者に教えを乞い、よく調べて良い土地を選んで、開拓庁の許可を得て開墾した。
 それからは、ひたすら力を合わせて働いた。 少しずつ馬を増やし、牛を取り入れ、チーズやバターの生産にも取り組んだ。 伊織が馬に詳しく、幸が経理に明るいことが、いい結果を生んだ。
 子宝にも恵まれた。 長男の衛〔まもる〕は数えの十一歳で、もう父のすることを懸命に真似ようとしている。 次男の統〔おさむ〕は怖いもの知らず。 八歳なのに馬に乗りたくてしかたがない。 この暴れん坊のために、伊織はイギリス商人からポニーを買って与えた。
 三番目は女の子で、千春〔ちはる〕と名づけた。 まだ三歳で、家族中から可愛がられている。 牧場経営が軌道に乗った後で生まれたせいで、ちやほやされて少々我が儘だが、根はやさしい子だ。
 今日は訪問先が競馬場なので、子供たちは三人とも留守番だ。 本当は連れてきたかった。 常に家族といるのが、幼い日に突然親兄弟と切り離されてしまった幸の、最大の願いだった。
 千春はぐずっていないだろうか。 統は親のいないのをいいことに勝手放題して、頭にたんこぶを作っているんじゃなかろうか――額に皺を寄せて考えていると、横から誠吾が袖を引いた。
「ほらほら、馬が出ましたよ。 せっかく借りた遠眼鏡〔とおめがね〕!」
 我に返って、幸は急いで双眼鏡を覗いた。 熱心に見つめ続けた甲斐があってか、沿海号は半馬身差でみごとにゴールを駆け抜けた。
 大満足で、幸は重い双眼鏡を下ろし、誠吾と頷きあった。
「よかった! これで次のせり市でも、うちの馬には高値がつくでしょう」
 出走馬たちは白い汗の泡にまみれ、荒い息をつきながら引き上げていった。 その中で、栗毛の沿海号だけが残され、誇らしげに頭を大きく振っていた。
 間もなく、白い夏服を着た伊織が現れ、笑顔で馬と騎手をねぎらい、周りの祝福を受けた。 晴れやかなその姿を、幸は誠吾と並んで楽しそうに見つめた。
「行かないんですか?」
 誠吾がうながしても、幸は笑って首を振るだけだった。 だが、彼女を見つけた知り合いの英国人が、大股でやって来て、半ば強引に引っ張っていった。
「広川の奥様、どうぞ。 イングランドでは、奥様方が花形です」

 写真屋がダゲレオ式撮影機をセットして、馬を背にした広川夫妻を記念写真に収めた。
 北海道で新たな生活を築くと決めたとき、林田の苗字は誠吾に残して、新しい名前を選ぶことを、伊織は決意したのだった。 幸も賛成だった。 この新天地には悠々たる大河が流れている。 鮭が川面を波立てて上がってくる石狩川を見て、二人は広川という苗字を選んだ。
 撮影が済むと、誠吾も観客席から出てきて、沿海号を撫でた。
「艶やかな馬体だな。 西洋馬と交配すると、これほど大きくなるものなんだな」
「日本の馬も寒さに強く、賢くていい素質を持っている。 両方の長所を併せ持った丈夫で足の速い馬を、これからも作り出していきたいんだ」
 ちょっとうらやましそうに、誠吾は日焼けした兄を見やった。
「夢のある仕事だ」
「お前もどんどん取引先を開拓してるじゃないか」
「まあそれはそれ」
 沿海号に角砂糖をやろうとして、誠吾の手がふと止まった。
「そうそう。 工部省のお偉方になった進藤洋一郎が、年末から欧州の視察旅行に行くそうですよ」
 幸ははっとした。 思わず夫の顔を見たが、伊織は動じず、むしろほっとした表情で穏やかに相槌を打った。
「それはめでたい。 わたしも馬の買い付けに一昨年行ったが、大急ぎの韋駄天旅の上に海が荒れて、えらい目に遭った。 官費で立派な船に乗れるとはうらやましい」
「それで、けじめに長年連れ添った料亭の女将と式を挙げたそうです。 旅行にも連れていくらしい」
 今度ほっとしたのは幸のほうだった。 燃えるような恋もいいけれど、朝夕なじんだ穏やかな愛は、なおいっそう大事にする価値があると思う。 華やかで心配性の綾乃がどんなに喜んでいるか、幸には目に見えるようだった。
「最近の政治家はみな立派なお髭を生やしているんですってね。 進藤さんもですか?」
 誠吾は、口を尖らせるようにして苦笑した。
「ええ。 こんなに太くて手入れの大変そうなやつをね。
 それにしても、大物の政治家や大商人から、降るように縁談が舞いこんでいたというのに。 馬鹿なやつだ」
「おまえこそあちこちからいい話があるそうじゃないか。 三十路を過ぎたんだ。 もう身を固めたらどうだ?」
「あちらを立てればこちらが立たず、という話でね」
 誠吾は豪快に笑いとばした。 そして、仕上げにポンと沿海号の肩を叩いた。 馬は鼻を鳴らして誠吾に首を寄せた。
「馬運車が来た。 そろそろ引き上げよう」
「あなた、祝賀会は?」
「そうか! しかし、本音を言えば、うちへ帰りたいな」
「一、二時間の辛抱ですよ。 馬主協会の会長さんをワインで酔い潰してしまえば」
「義姉さんも悪くなりましたねえ」
 誠吾がふざけて嘆息した。 馬の手綱を世話係に渡して、三人は上機嫌で走路を後にし、表に止められた馬車へと向かった。
 空には、競馬終了の花火が上がり、白い煙と轟音を残した。 斜めにたなびき、やがて薄れて消えていく煙を、幸はしばらく目で追った。
――すべては去っていく。 あの煙と同じに、空の彼方へ。 でも心には、思い出として残る。 故郷の家、親兄弟の笑顔、お義母さまと歩いた城への道……目を閉じれば、いつでも瞼に浮かぶ――
 いっそ無くしてしまいたいと願い、一度は投げ捨てた記憶だったが、今の幸にはそれさえ懐かしい過去だった。
 これからも未来は現在となって、連綿と続いていく。 やがて子供たちの世に、そして孫の世に……
 ぼうっと思いを廻らせていて、幸は段差に足を取られそうになった。
 両側にいた男二人が同時に手を伸ばして支えた。
「ほら、しっかり」
 誠吾のほうが叱るように言った。 幸は笑って、二人の手を同時に握った。
「いつまでもこうやって力を合わせていきましょうね」
「それが大事だ」
 伊織が穏やかに応じた。
「力を合わせることが。 昔から、我々はそうしてきた。 たとえ時の運で敗北しても、会津の教えは正しいと、心から思っている」
 伊織は七年前から、東京の誠吾に手形を送って、匿名で会津に復興費を寄付し続けてきた。 戦いで荒れた故郷を一日も早く元の美しい姿に戻したいという、強い望みから出たことだった。
 その思いは誠吾も同じだった。 再び歩き出すと、彼は間もなくぽつりと言った。
「藩から県になってしまっても、生まれ故郷は故郷ですから」
「そうですとも」
 幸は目を細めて、日のさんさんと照る大地を見渡した。
「そしてここが、子供たちの故郷になるんです」
「いいところだけれど、わたしには目まぐるしく変わる東京のほうが性に合っていますよ。 飽きなくて」
「たまにはこっちへ骨休めに来てくださいな」
「お義姉さんたちこそ、東京へ招待しますから来てください。 待ってますよ」
「はい、ありがとう」
 平和だった。 まだ日清戦争には遠く、世の中は文明開化に沸いていた。

 馬車に乗るとき、幸はもう一度、空を見上げた。
 煙はもうどこにもなく、淡い青一色の天空が、果てしなく広がっていた。

【完】








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