表紙

面影 103


 その夜、ゆき子は眠れなかった。
 進藤は好きだ。 大好きと言ってもいい。 男として魅力があるし、人として尊敬できる。 優秀で、しかも人当たりがいいから、出世が望めよう。
 だが、ゆき子にはためらいがあった。 彼の妻になれば、まさしく路ですれ違ったあの男の言った通りになってしまう。 そんな気はないのに、故郷を捨てて勝者に組した裏切り者になる……

 明け方になって、ゆき子はきっぱり迷いを断ち切った。 やはり自分は、登り竜の進藤にはふさわしくない。 面と向かって別れを告げるのは辛いし角か立つから、今日中に手紙を書いて、明日こっそりこの屋敷を去ろう。 世の中はまだ物騒だが、気を強く持てばなんとかなる。 今度こそ、出発しよう!


 その朝、進藤は久しぶりににぎり飯を口にした。 それまでは重湯と粥ばかりだったので、もう飽きた、歯ごたえのある物が食いたいと言い出したのだ。
 お初は大喜びで、海苔をがっちりと巻いた梅干し握りを、馬に食わせるほど大量に作った。 おかげで家中の昼食が握り飯になってしまった。
 お明も張り切って、行商から卵を買い、だし巻きを作って食卓に載せた。
「へえ、これをお明ちゃんが。 もったいのうて食えんな」
 賀川がからかうと、柳瀬がまぜかえした。
「腹を壊すのが怖いんじゃろ」
「もう! そんなこと言うなら二人にはあげません!」
「そうですよ。 いらないなら私にちょうだい。 さっき味見をしたら、食べごろのいい味付けでしたよ」
 進藤の盆を下げてきたゆき子が声をかけると、お明は手を叩いて喜んだ。
「ほーら! ゆき子さまが褒めてくださるんだもの。 食べないと罰が当たるから!」
「冗談じゃ。 ありがたく頂くき」
「まあそうむきにならんで」
 ごつい二人の男がかしこまって座りなおしたため、笑いが弾けた。
 また家に笑顔が帰ってきた。 それは進藤が回復期に入った喜びからだったが、同時にゆき子が心から明るくなったためでもあった。

 また進藤の部屋に行こうとして、ゆき子が庭に面した廊下を歩いていると、塀の隙間で人影が動いた。
 ゆき子は表情を固くして立ち止まった。 また投げ文の男か……? 人影の怪しい動作に、不快感が蘇った。
 下駄を揃えて踏み石から降りると、ゆき子は裏口に素早く走り、さっと引きあけて小路を見渡した。
 そこには、お高祖頭巾のすらりとした女が立ちすくんでいた。



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