表紙

面影 101


 進藤家がわだかまりなく、和気藹々と楽しんだのは、その夜が最後となった。
 それまで家之子郎党たち、つまり従卒や下働きにいたるまで、ゆき子がいるのが当然という空気の中でのんびり暮らしていた。 しかし、ゆき子が思い切って故里へ帰る決意を示した後、屋敷の日々は微妙な緊張に包まれた。
 誰もが腫れ物に触るようにゆき子を扱った。 口に出して言うことはないものの、屋敷を去っていかないでくれと背中に密かな願いを負わされているようで、ゆき子はなんとなく落ち着かなくなった。

 それでももう、心は決まっていた。 春になれば、そう、春になって山道の雪が融ければ、今度こそ故郷へ帰る日が来る。 そこで待っているものがどんなに辛くても、いつかは向かい合わなければならないのだった。
 そんなゆき子の不安な心を代弁するかのように、その冬の天候は不順だった。 暖かくなりかけたと思えば、強いみぞれが襲う。 あられ混じりの雨が三日も降りつづけたりした。

 弥生に入って、ようやく気候が穏やかになった。 だが世情はまだまだ揺れ動いていた。 進藤の予言通り、官軍が続々と蝦夷へ向けて、船や徒歩で終結しているという噂が流れてきた。
 賀川が瓦版を持ち込んできて、台所で盛んに説明をぶっていた。
「箱館に行くきまっちょってな」
「箱館って?」
「蝦夷の町じゃ。 玄関口じゃな」
「そんな北の果てまで追いつめなくても、蝦夷くらい静かに住まわせてあげれば」
「そうはいかん!」
 賀川は珍しくきっとなって、お初の言葉を遮った。
「はるか北にゃオロシャいう、口が耳まで裂けた毛唐がこじゃんとおる。 わが国を狙うとるいう噂じゃ。 蝦夷は北の守りとして、日本の盾になってもらわにゃ」
「はいはい。 ほんとに世の中、急にぶっそうになったもんだ」
 お初は憂鬱そうに、梅干しの甕〔かめ〕を床下から取り出そうとした。 とたんに賀川は親切な男に戻り、急いで手を貸した。
「重かろ。 わしがやるきに」
「まあ、すまないねえ」
 いかにも気の合った二人から少し離れて、ゆき子は横の小さな座敷で大福帳の計算をしていた。 話に加わろうと思えばできる位置だったが、聞いているだけで口は挟まなかった。
 隊を組んで北へ北へと向かっている大量の軍隊。 それは通る道筋の食料を取り上げ、馬を接収し、様々なものを奪っていくだろう。 ゆき子が港近くで目撃した軍の隊列は、黒い大蟻の群に思えた。
 徳川幕府のお膝元だった東京にも、本格的に官軍が配備されるという。 いよいよ明治新政府が動き出すのだ。
――いつになったら戦乱は鎮まるんだろう。 春の終わり? 夏の初め?――
 細かい足し引きに疲れ、文机に頬杖をついて帳面を見下ろしているうちに、ぼんやりと視野がかすんだ。

 翌日、進藤が咳を連発しながら帰ってきた。 そして珍しく、次の日に熱を出して寝こんでしまった。



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