表紙

面影 100


 安心させるように、進藤は数度、頭を横に揺らした。
「もう行かん。 わしは梅野閣下の秘書官じゃ。 官軍に入るべくもない」
 ほっとして、ゆき子は眼を伏せ、胸の動悸が収まるのを待った。 戦いと聞いただけで心臓がせり上がる。 真っ黒な不安が襲ってくるのだった。
 木目の通った天井を見上げ、進藤がぽつりと言った。
「仲間はみな土佐へ戻った。 その前に、都で天子様に拝謁を賜ったそうじゃ」
「みなさん旦那様と同じにご出世でしょう」
 お初もほっとした様子で、陽気に締めた。

 食事が終わり、離れに戻ろうとしたゆき子は、渡り廊下の中頃で、進藤に呼び止められた。
「余計なことを考えるな。 ゆったりと気を大きく持って、心が癒えるのを待て」
「はい」
「わしがおぬしを邪魔にしとるように見えるか?」
「いいえ!」
「おっと」
 ぐらっとよろめいて、進藤は廊下の柱に手をかけた。
「こりゃ思うより酔っちゅうな」
 そしてもう片手を額に置き、低い声になった。
「実はな、わしは二度、おぬしに会うとる。
 一度目は、小さな祠の中じゃ。 おぬしは旅の途中らしく、供の者が横に寝とった。 暗がりに起き上がった顔が、まっこと花のようでな。 そっとしとかにゃあいかんと、強う思うた」
 声に柔らかな艶が加わり、眼が光を帯びた。
「そん後、不思議に運のいいことが続いた。 わしを狙うた弾が木に当たって逸れたり、大砲で吹っ飛んだときもわし一人かすり傷だったりな。
 梅野閣下に引き立てられたのもそうじゃ。 おぬしはわしの護符やもしれん。 そう思うき」
「……は?」
「きっと守り札じゃ。 いや、厨子の中の観音様かな」
 仏像に例えられて、ゆき子の頬が紅潮した。
「それは……」
「つまり、飾って眺めているだけで心休まる。
 いつかは手放さにゃいかんが、さぞ寂しかろうな」
 ふっと笑みをもらして、進藤はいくらかよろめきながら廊下を戻っていった。


 部屋に帰ってから、ゆき子は頬に両手を当ててみた。 熱く火照っているのがわかった。
 よるべのない者として護り、慈しむ……それが進藤の気持ちに一番近い感情だろう。 私にそんな値打ちがあるだろうか、と思いながらも、ゆき子はほんわりした幸せな気分に、いっとき浸った。 そして、自分の進藤に寄せる気持ちは何だろうと、改めて真剣に考えた。
 兄? いや、もっと懐かしいような、切ないような印象がある。 もっとも信頼のおける同志。 親友。 頼みの綱。 そのどれもが入り混じった、微妙な感情だった。



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