表紙

面影 5


 廊下を行くと、座敷の障子を大きく開いて、お栄が放心した目で庭を眺めていた。
 起きたばかりだから、さすがに酔ってはいない。 きちんと着替えたお幸を見ると、ひるんだ様子で視線をそらし、膝元に広げた風呂敷にそそくさと着物を包み始めた。
 畳のへりに座りこんで、お幸は眼を大きくして尋ねた。
「お出かけ?」
 顔を上げないまま、お栄はいまいましげに呟いた。
「田舎へ帰るんだよ。 せいせいするだろ?」
「ううん」
 おかっぱを揺らして、お幸ははっきりと答えた。
「番頭さんが言ってましたよ。 もうすぐひとつきの喪が明けるって。 そしたら前とおんなじになるのに、どうして帰っちゃうの?」
 乱暴に風呂敷を結んでいた指が、空中でさまよったように止まった。
「……前と同じ?」
「そう。 お商売はそう長く悲しんでいられないから、ひと月で元の暮らしに戻すんでしょう?」
 お栄の実家は山間の農家だ。 出戻ればいい顔はされないし、さっそく畑仕事に追い使われるだろう。 ぜいたくに慣れたお栄が、本気で帰りたいわけはなかった。
 義母が迷い始めたのを見て、お幸はもう一押ししてみた。
「お父っつあんが急にいなくなって、おっ母さんまで行っちゃったら、あたし心細い」
「嘘ばっかり」
 短く吐き捨てたものの、お栄の口元はほころびかけていた。 ここぞとばかり、お幸は泣きそうな声に変えた。
「だってあたしには、もうおっ母さんしか家族はいないんだよ」
 そう言ったとたん、不思議に胸が迫ってきた。 計算がなかったとはいえないけれど、話しているうちに、この気持ちも本当だとわかり始めていた。
 お栄はしばらく手を止めて、風呂敷包みを穴があくほど見つめていた。
 それから、不意にごみのように放り出して、ふうっと息をついた。
「そうだね。 嫁入りから十二年たっても子ができなくて、そこへ急に断りもなくあんたを連れてこられてさ、なんか、気持ちのおさまりがつかなかったんだよ」
 むかし中条小町と称えられたという整った横顔に、ぎこちない笑みが浮かんだ。
「それに、子供の扱い方を知らないしね。 私も……おとなげなかった」
 それは、お栄からの休戦の申し出だった。
 


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