表紙

面影 4


 お栄は、親戚たちとの昼食の席にも出ず、ふてくされて寝てしまった。 代わりに番頭の治助が客たちを送り出し、祭りがすんですっかり普段に戻った道筋を、肩の荷が降りた様子で帰ってきた。
「よくやってくださいました、お嬢さん。 わたしが書いた口上を、間違えずにきちんと言えましたね」
「伯父さんたちに気に入ってもらうためだもん。 布団の中で幾度も繰り返して、一生懸命覚えたの」
 治助は微笑み、お幸のおかっぱ頭に手を置いた。
「これからは遊んでばかりはいられませんよ。 覚えることが山ほどあります。 手習いと帳面付けは、わたしや由吉が教えるとして、お習字はちゃんと習いに行きませんと。 それに三味線のまねごとぐらいは、花見の席の座興として覚えておきたいですね」
「やる! 明日から行く!」
「長く続けることが肝心ですよ。 すぐに飽きてはなりません」
「はい!」
 お幸は軽く小首をかしげて、にっこりと笑ってみせた。

 お墨付きをもらった跡継ぎということで、その晩からお幸は座敷の上座で、膳を運んでもらって食べるようになった。 食事が終わると小女が下げる。 お幸は何もする必要がなかった。
 ちょっと大人になった気分で、池に光る月影に見とれて廊下を歩いていると、お栄の部屋から低くうなされる声が聞こえた。
 起こさないように、お幸は足音を忍ばせて通り抜けた。 爪先立ちで歩きながら思った。
――おっ母さんに負けちゃいけない。 でも敵に回すのはもっとまずい。 口惜しいことをいろいろ言われたけれど、ここは胸に収めて仲よくしよう――
 このとき、お幸は大人への階段を一歩上ったのだった。


 翌朝、お栄はなかなか起きてこなかった。 すっかり日が高くなってからようやく障子をあけ、癇走った声で女中を呼んだ。
「手水鉢〔ちょうずばち〕を持っておいで! それに髪結いのお粂〔くめ〕も呼んどくれ!
 こんな家、誰がいてやるもんか。 嫁入り道具と支度金を返してもらって、さっさとおさらばだ!」
 後半の捨て台詞はさすがに小声で言ったが、隣りの部屋にいるお幸には筒抜けだった。
 お幸は、書き損じの反古紙〔ほごし〕に何度も漢字を連ねて覚えていたのだが、その手を休めてしばらく考え、やがて決心して立ち上がった。
 


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