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1

 洋美〔ひろみ〕が初めて彼を見たのは、上京してきて新宿区の区立小学校に編入して間もなくの、初夏のことだった。
  平年より高い気温のせいで眠くなるような午後で、校門の前の道路が埃で白っぽく変わっていたのを覚えている。
  ようやく授業を終えて友達と出てきた洋美は、目に鮮やかな新緑を楽しみながら、校内の噂話に耳を傾けていた。 その視線が、ふと止まった。
  学校の斜め前にある小さな公園のベンチに、ひとりの少年が座っていた。 制服らしいブレザーを横に置き、顔をうつむけて文庫本を読みふけっている。 真っ白なシャツと、なめらかな額と顎の線が、まぶしく眼を射た。
  それだけだった。 3人連れの少女たちは笑いさざめきながら通り過ぎ、その間少年は一度も眼を上げないで読みつづけていた。
  ただすれ違ったというだけで、何の接点もなかった。 その短い時間が、なぜ印象に残ったのだろう。
 
  半年が過ぎて、肌寒い風が吹き出した頃に、駅前の本屋で、また洋美は彼を見た。 茶色のコートを着て、ぎっしり詰まった本棚の上のほうを探している。 背が高く、手足が長いので、相当のところまで指が届いた。
  洋美の欲しかった本も上にあったので、彼に取ってもらおうかと一瞬思ったが、恥ずかしくてとても声をかけられなかった。
  別の本を買って、本屋を出てきてから気がついた。 相手は一度、それもちらっと見ただけの人だったのだ。 それなのに旧知の間柄のような気がしていた。 顔も一目で見分けた。 考えてみれば不思議な話だった。
  家に帰り、夕食を済ませて風呂に入って、部屋でひとりになったとき、ふと思った。 記憶が一部戻ったのだろうか。
  唐突に椅子に座り込むと、洋美は習慣になっている集中を始めた。 ちょっとでも見覚えがあったり、印象に強いものを見つけると、必ず5分は考えてみる。 霧の彼方から何かが見えてこないかと。

  両親は一人っ子の洋美をそれは大事にして、私立の高校に通わせてくれた。 物静かな洋美は女子校を選んだ。 自ら下したその決断は正解で、おっとりした地味な校風は彼女によく合い、親友ができた。 数人だが、多人数と浅く付き合うより、気のあった3人といるほうがずっと楽しかった。

  中でも大親友と言える松井千鶴〔まつい ちず〕と待ち合わせて、久しぶりに渋谷のバーゲンに出かけた日、3度目のめぐり逢いが起きた。
  夏で、不意に強い雨が降ってきたので、傘のない二人はきゃあきゃあ言いながら透過アスファルトを走り、近くのカフェに飛び込んだ。 そこに彼がいたのだ。
  相変わらず一人だった。 洋美が彼を見るときは、必ず単独行動をしている。 この日は入口に近い窓際の席で、カプチーノをまぜながら暗くなった外をながめていた。
  偶然にも、彼の周りしか空いた席はなかった。 洋美は気後れし、篠つく雨の中に出て行こうとさえ思ったが、度胸のいい千鶴はためらわずに彼に近づき、声をかけた。
「ここ、座っていいですか?」
  もう青年と言える年になった彼は、顔をあげて千鶴を見、低く答えた。
「どうぞ」
  洋美の足が妙な風に震え、一歩後ろに下がりかけた。 しかし千鶴は洋美の当惑に気付かない様子で、振り向いて高い声で叫んだ。
「おいでよ、洋美。 ここ空いてるって」
  逃げる口実は見つからない。 仕方なく、洋美は買い物の入った紙袋をぎゅっと抱えて、千鶴の横、つまり青年の斜め前に腰をおろした。
  彼はカップを持ち上げて一口飲み、また外を眺め始めた。 誰かを待っているのかもしれない。 取りあえず、前の2人の女子高生には興味はなさそうだった。
  不意に千鶴が尋ねた。
「それ、おいしいですか?」
  青年はゆっくり顔を巡らせて、正面の千鶴を見た。 自分が見られたように、洋美は内心ぎくっとなった。
「普通」
「私もそれにしよう。 洋美は何飲む?」
「ああ……レモンティー」
  千鶴は一瞬妙な顔をした。 洋美は普段、すっぱいものが苦手だったのだ。
  洋美が驚いたことに、千鶴は積極的に青年に話しかけ始めた。
「サラリーマンですか?」
  カプチーノのカップをテーブルに置いて、彼は短く答えた。
「大学生」
「へえ、どこの?」
  千鶴、ずうずうしいよ――洋美がはらはらしていると、少し間を置いて答えが返ってきた。
「○工大」
「国立!」
  いかにも感心している口調だった。 洋美には、媚びているようにさえ感じられた。 千鶴、どうしちゃったの? と洋美が心の中で呟いたとき、青年がカプチーノを飲み終わって立ち上がった。
  とたんに千鶴が口走った。
「電話番号、教えてくれませんか?」
  そこでようやく洋美は悟った。 何と、千鶴は青年に一目ぼれしていたのだ。
  そっけなく断られると、洋美は自分のことのように覚悟した。 これまでの出会いで、彼が洋美や仲間の女子に興味を示したことは一度もなかったからだ。
  しかし、確かに驚いたようではあったが、彼はわりにあっさりと答えた。
「090の○○○の××××」
  千鶴は大急ぎで携帯電話に入力し、さりげなく尋ねた。
「名前は?」
「……並河〔なみかわ〕」
「杉並区の並?」
「そう、それとさんずいの河」
  それだけ言って、彼はそのまま行ってしまった。 彼も雨宿りだったらしい。 外はいつの間にか夕立が止み、本来なら暗くなる道がネオンを反射してきらきら輝いていた。
  携帯電話をバッグに入れながら、千鶴がつぶやいた。
「私の名前も番号も訊いてくれなかった」
  不意に腹が立ってきて、洋美はそっけなく言い返した。
「逆ナンパ、初めて見た」
「かっこいい人はマークしとくの」
「ああいうのがタイプ?」
「というか……」
  珍しく千鶴が言いよどんだ。
「わっと突っ走っちゃったから」
  自分でも意外な行動だったらしい。 確かに彼は格好よかった。 スタイルがよく、特に脚がまっすぐで長い。 顔はと言えば……
「眼がきれいだよね、並河さんって」
  眼ばかりではなかった。 中高でやや面長な顔立ちに、さらりと流した髪がよく似合っている。 高校生のときはちょっと人目を引く程度だったのが、大学生になって顔が決まって、人が振り向くほどの器量よしになっていた。

  その夜、窓から星をながめていると、ふっと流星が落ちるのが見えた。 その星は洋美の夢のように、一瞬光ってすぐ薄暗くなり、建物の間に吸い込まれて消えた。
  洋美は溜め息を漏らして、窓辺に頬杖をついた。 偶然というのは人生に何回あるのだろうか。 あしかけ4年にわたって3度、偶然の出会いをした若者に、洋美は不思議な親しみを感じていたのだった。 だが、話しかけられなかった。
  代わりに千鶴が、たった一度の出会いで近づいた。 悔しいというより、親友の勇気に洋美は驚き、半ば感心していた。


 
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