表紙

 夏の終り  1 


 なんとなく体が重い、けだるくなるような午後だった。 低い山で、丘と言ったほうが適当な高さだが、雲築山〔くもつきやま〕という大げさな名前のついている斜面を、田所侑〔たどころ ゆう〕はのんびりと登っていた。
  2日前からかけ出した眼鏡が鼻に重い。 顎下の無精髭も気になる。 朝起きて、歯を磨きながら鏡を見て、必ず笑ってしまう顔だった。
「これって似合うか?」
  そう弟の渉に訊いたら、こんな返事が返ってきた。
「かっこいいんじゃないの? 今っぽくて」
  今っぽいか…… 確かに7年も留守にしていると、世の中は目まぐるしく変わっていた。
  長い上り坂が山の中腹を回っている。 バッグを右肩から左肩に移し変えて、侑は気合を入れて歩き出した。
  そのとき、山の陰から車が曲がってきた。 どうも選挙カーらしい。 大きなスピーカーが前後に向いていて、デカデカと男名前の書かれた垂れ幕が上部を覆っていた。
  その車は、侑の5メートルほど前で停まり、右のドアが勢いよく開いた。 そして、中からサブリナパンツ姿の娘が、ひらっという感じで降り立った。
  彼女は侑を一瞬目に留めたが、すぐ車に向き直って、高い声で叫んだ。
「バーカ! バイト代なんかいらないよ! 絶対投票なんかしてやんないからね!」
  そして、憤然と歩き出した。 なぜか侑のすぐ横に並んで。
  別に文句を言う筋合いもないので、侑はその娘と肩を触れ合うようにして歩いた。 間もなく彼女は、口をほとんど動かさず、腹話術のように話しかけてきた。
「いてくれて助かった。 知り合いの男の子だから変なことすると騒いで知らせるよ、って言ったの。 そしたらしぶしぶ下ろしてくれた。
  セクハラされたんだ。 あんのヤロー」
「マイク持って、お願いしますっていうやつやってた?」
「そう。 1時間5千円くれるっていうから」
  うまい話にはたいてい裏がある。 さいわいこの子は逃げられたが、普通選挙カーがこんな山道を通るだろうか。 男の下心はとんでもない結末になることがあるのだ。 侑は思わず首を伸ばして背後に眼をやった。
  車の後部座席のドアが開いて、男が顔を出していた。 眉が片方吊り上がり、頬が強張っている。 その異様な表情を見てとったとたん、侑の胃がぐっとねじれた。
  侑は唇を引き結んで、少女をうながした。
「早く行こう。 走ってったほうがいいかもしれない」
「え?」
  少女は首をかしげたが、侑が続いてささやいた言葉を聞き取ると、顔色を変えた。
「あいつ、気を変えたらしい。 君をあきらめきれないんだ。 たぶん引き返そうかどうしようか迷ってるとこだ。 あそこを曲がったら走る。 いいかい?」
「うん」
  ふたりは曲がりくねった山道の角まで我慢して歩き、車が木の陰に隠れて見えなくなったとたんに駆け出した。 侑はスニーカーだし、幸い女の子のほうもサンダルではなく、軽くて動きやすいシューズをはいていた。
  走りながらも、敏感な侑の耳はエンジン音を聞きつけていた。 とっさに彼女の手を取って側道にそれ、脇の草むらに飛びこんで身をひそめた。
  危ないところだった。 1分ほどして例の白い選挙カーが、速度を上げて、来たばかりの道を戻っていった。
  車が見えなくなるとすぐ、侑は立ち上がり、少女に言った。
「又走る。 がんばって」
  やや青ざめていたが、彼女は気丈にうなずいた。

 登る道は細くなっていて、下のようにUターンはできない。 また引き返してくるにしても少し時間がかかるはずだ。 侑にとっては、来た道を戻ることになるが、この際やむを得なかった。
  ふたりは走りに走り、涼しい山道だったのに麓に着いたときには汗だくになっていた。
「こっち」
  今働いているペンション『ラベンダー・イン』の裏口に娘を招き入れたとき、道の端に土埃が立つのが見えた。 選挙カーが凄い勢いで下りてきたのだ。
  少女が侑の手をぎゅっと握った。 かすかに震えているのがわかる。 人の執念というものを、初めて実感したのだろう。
  侑には、乗っていた男の心理がはっきりとわかった。 社会的立場のある男だ。 騒いでやる、と娘に言われてあわてて車から降ろした。 しかし、一見仲良さそうに侑と立ち去るのを見て、自尊心がおさまらなくなった。
  場所は山の中で、人目はない。 相手は侑ひとりだが、自分には運転手という部下がいる。 欲望と嫉妬に打ち負かされて、男は彼女を侑から奪い返そうとした……
 
 やりきれない。 ぶるっと頭を振ると、侑は少女の手を強く握り返してやった。
「もう平気。 ここ、俺の職場だから」


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