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   これでもかというほど自転車がずらりと並んでいる駅前を、由麻(ゆま)は歩いていた。 頭の中では忙しく計算している。 だが体は自然に反応し、倒れかけた自転車を巧みによけて、なめらかに歩を運んでいた。
  (明日出る給料が手取りで19万5千として、貯金が87万、来月の生活費を13万で乗り切ると、93万5千か)
  夜のバイトを週3日から5日に増やそうか。 それでもう10万。 どう頑張っても130万には届きそうもなかった。
  あと27万足らず… 一介の勤め人には相当な金額だ。 そして由麻には既に両親はなく、親戚は名ばかりだった。 助けてくれる者は、どこにもいない。
  あと26万5千円。 それが手に入ったら、最高の結婚プレゼントになるはずだった。 だがもう間に合いそうにない。 由麻は自分に腹が立っていた。 ぎりぎり節約しているつもりだが、もっとやれたかもしれない。 たまに借りるDVD、ごくたまに見る映画。 この前のセーターだって、買わずにすませようと思えばできた。
  いらいらしながら財布を取り出して、スーパーのポイントカードを確かめようとしたとき、不意に後ろからどんと衝撃があった。 自転車が追突したのだ。
  由麻は前のめりになり、雨あがりの歩道にがくっと座りこんでしまった。 急いで首をねじって背後を見たが、ぶつかったはずの自転車は影も形もない。 急いで逃げてしまったらしい。

 しかも、前ではもっとひどいことが起きていた。 転んだはずみに手から離れて飛んでいった茶色の財布を、男の子が拾っていた。 紺に金糸銀糸の刺繍が入ったぺらぺらのスカジャンを着ている。 素早い目線を送ってくるので、これは大変だと思い、由麻が必死で立ち上がろうとすると、その16ぐらいの男の子は、長い足を駆使して走り出した。 そして、あっという間に人ごみにまぎれてしまった。
「どろ…」
  まで口の中で叫んで、由麻はあきらめ、肩で息をついた。 ついていない日は、どこまでもついていない。 突き飛ばされたのはこれで2度目だ。 朝、通勤の駅で背後から押されて、あやうく線路に落ちるところだった。
 まだ財布には8千円あまり入っていたし、ポイントも3種類ためていたのに。 カードケースと別にしていたのが、せめてものことだった。
 
 膝の汚れたしみをぼんやり眺めていると、横の車道から声がした。
「つきを変える気はないか?」
  振り向いた由麻の前に、メタルカラーの大きな外車があった。 運転席から男が顔を出している。 生き生きした表情だった。 見方によっては、由麻の不幸を面白がっているようにさえ感じられた。
  だが、言葉つきはふざけたところはなかった。 ドアを開いてすっと降り立つと、男は言った。
「いい儲け話があるんだ。 聞くだけでも聞いてみないか?」
 
  金が欲しい、と思いつづけていたから、普通なら絶対に無視する口車に乗ってしまった。 聞くだけなら、と思ったのが運の尽きだった。
  男は由麻のそばに立つと、ごく事務的に尋ねた。
「12時20分だ。 食べながら話そう。 何か食いたいものあるか? おごるよ」
  由麻はちょっと考えた。 このごろ過労気味で胃酸の出が悪い。 もたれないものというと……
「中華がゆ」
  男は何ともいえない顔をした。
「ビーフ・ストロガノフとか銀座の○寿司とか言うかと思った」
「食べつけないものを胃に入れると引っくり返っちゃうからね」
「そうかい。 じゃ、○珍楼のフカヒレ粥か、大飯店の伊勢エビ膳か、それとも中華街のめったに食えない珍味か、どれがいい?」
「普通の」
「楽な女だな」
「あそこのおかゆがおいしいよ」
  男は伸びをして由麻の指した方角を見た。
「どこ?」
「あの小さな看板の店」
 
  看板同様、店の中も小さくて、その半分をカウンター、半分を丸テーブルに分けてあった。 秘密めいた話をしたい男は、由麻をうながして一番奥のテーブルに連れていった。
  由麻は赤と黒の椅子に座り、すぐに運ばれてきたおかゆの入れ物を満足そうにながめた。 これで580円、昼食代が浮いたわけだ。
  男は粥と鯉の甘酢掛けを頼んだ。 2人は少し黙って食欲を満たしていたが、やがて男が話し出した。
「バイトしないか」
「してる」
  今日の野菜がゆは一段とうまい。 やはりおごりはいいな、と思いながら、由麻はあっさり答えてやった。 だが男は引き下がらなかった。
「一ヶ月30万でも?」
 
  とたんにピンときた。 店の客にこういうのがいる。 すっぴんの時に愛人契約の申し出をするのは珍しいが、物好きなのだろう。
「無理」
「結論が早い。 話を聞け」
「いいよ。 話だけなら」
  580円分、聞く義務がある。 しかし、消化の悪くなる話題らしかった。
  男は横に口を広げて、にやっと笑った。 右頬にぽつんと笑窪が出る。 どちらかというと童顔なので、よく似合った。
「代役を頼みたいんだ」
「誰の?」
「話が早いな。 俺の恋人のだ」
「ばれるよ」
  誰かの身代わりなんてできっこない。 たとえ双子みたいに似ていたとしてもだ。 幼稚園のクリスマス劇でマリアさまに抜擢されたが、あまりに棒読みなので2日で役を降ろされたという経験を、由麻は持っていた。
  男はくすくす笑い出した。
「恋人なんていないの。 いるふりをするんだよ」
  食べ終わったので、由麻は改めて前に座っている青年をじっくり見た。 そして言った。
「あなたならお金出さなくても恋人作れるよ」
  男はすまして言った。
「ほんとに作っちゃ困るんだよ」

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