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58 見ないふり


   ジュスタンと呼ばれた恰幅〔かっぷく〕のいい男性は、軽い足取りでイヴォンヌに近づき、優しい口調で尋ねた。
「君がわたしの又姪を救ってくれたのかね? さぞ大変だっただろう?」
 イヴォンヌは様々な経験を積んでいた。 だから猫なで声の男には用心しろと身にしみて知っている。 負けずに心にもない媚びを含んだ笑顔を浮かべて、甘い声で答えた。
「それはもうお気の毒なありさまで。 心打たれたからこそ、あんな高値でもポンとお払いして引き取ったんですよ。 うちはちゃんとした店で、嫌がる子に無理強いはしません。 ですから身の上を聞いてすぐ、連絡を差し上げたんです」
 引渡し費は高いよ、と仄めかされて、ジュスタンは苦笑したが、薄い水色の目は冷たい光を放っていた。
「まずい展開だな、おかみ。 人買いは合法ではないぞ」
「あらご冗談ばっかり。 私が出したのは仲介料と手間賃と、それに一年分の給料前払いですわ。 おわかりと思いますが、奴隷を使うのは手間がかかって効率が悪いんです。 すぐ逃げようとしますから、見張りが大変でしょう? それに全力で怠けようとしますしね。 だからもちろん年季奉公です」
 奴隷という言葉に、ジュスタンはたじろいだ。
「いや別に、おかみを非難したわけではない。 ともかく知らせてくれてありがとう。 それで、いくら払えばいいかね?」
「そうですね、一万エキュは頂かないと」
 顔色一つ変えずに、イヴォンヌは吹っかけた。 一万エキュは六万フラン(≒一億二千万円)にあたる。 庶民には気の遠くなる金額だが、富豪の貴族には一、二ヶ月分の生活費でしかなかった。
 ジュスタンは口の端を歪めて笑い、どっしりした財布を取り出して中身を数えた。
「ついていたな。 昨夜賭けに勝ったので千フラン札が詰まっている。 ええと」
 無造作に何種類か混じった札の分厚い束を取り出すと、彼は近くにあった象眼細工の丸テーブルに置いた。
「充分あると思うが、念のため、これも付けておく」
 ルイ金貨が一掴み、机の上に小さな山を築いた。
 愛想笑いを浮かべて、イヴォンヌは丁寧に礼を言った。
「ありがとうございます、お役に立てて光栄でしたわ」


 そうこうしているうちに、外では馬車が敷地から出ていく車輪の音が聞こえてきた。 アンリエットは急いで窓辺に寄り、両開きの窓を開いて身を乗り出した。
 視野の横に、ジュスタンがあわてて外に出て、黒っぽい馬に飛び乗る姿がかすめた。 だが、アンリエットの視線は紋章なしの立派な馬車にそそがれていた。 侯爵家に引き取られるミレイユ。 これで見納めかもしれない。 迎えが早く来たため、ゆっくりさよならを言う機会がなかった。 だからきっと、馬車から別れを惜しんでくれると思った。
 期待したとおり、ミレイユはこっち側の席に座っていた。 しかし、目が合ってアンリエットが手を振ろうとした瞬間、さっとミレイユの視線がそれた。
 まっすぐ前を見つめ、背中を板のように固く張ったまま、何も見なかったようにミレイユは館の裏口を出て、そのまま馬車で運ばれていった。








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